破壊の神にすがる断末魔の叫び

十一月九日多くのインテリを気取った良識派の連中と同じく、まるで壮大なアメリカンジョークを観ている錯覚に陥った。自宅でテレビの画面を見つめながら、近い将来の恐ろしい想像が頭の中を駆け巡り、激しい動悸に襲われてソファーに倒れ込む。こんな描写が決して大袈裟じゃないほど僕はショックを受けた。そして直ぐにこの結果を受け入れ楽観的な要素を探し出した。
アメリカ国民は本気で現状の変革を求めた。第二次大戦が終わり、世界は平和と協調を掲げ新しい時代へと突入。同時に冷戦の時代へと移って行く。その国際協調に基づき経済はグローバル化へと邁進して行くが、その間にも、常に世界のどこかで内戦や紛争が絶えることはなかった。アメリカは侵略者であると同時に、愛と平和の伝道師という大いなるパラドックスを身に纏いながら文字通り世界を牽引してきた。

2040年アメリカの人口構成に於ける白人の割合はマイノリティとなる事が予想される。白人が建国した国(ネイティブの問題はさておき)がその白人の物ではなくなってしまうのだ。

 

俺達の居ないアメリカなんて、一体何の意味があるのか?

 

俺達を置き去りにしていく社会に何の価値があるのか?

 

そうしてでも生き残って行った国家に何が残るのか?

 

かつては工場で働く労働者であっても、郊外に立派な家を持ち、車を2台所有する。そんな労働貴族が沢山いる良い時代があった。しかしその子供たちの世代には親と同じ職場は存在しない。これは会社でも似たような話が言えるかもしれない。

創業当時から働いていて、その彼らの頑張りにより繁栄し上場して、そして業績の悪化によりリストラされる。組織や集団はいつの間にか誰の物でもなくなり、一つの有機体であるが如く、その生き残りを最大の使命として進んでいく。

移民達は主に経済的、あるいは政治的な迫害から祖国を捨て、自由の国アメリカに希望を持って降り立ち、勤勉に働き、その孫の世代の頃、大学へ行きホワイトカラーの地位を手に入れる。アメリカはそうやって新しい血を入れ替えることで発展していった。

だからそもそもアメリカは特定のある人種の物ではない。巨大な物体とシステムがあるだけ。だから日本等と違い、神話が存在しないから人々を束ねる為に憲法(ルール)が最上位に存在しなければならない。そう初めから分断された歴史の上に成り立ち、そんな宿命を背負って生まれてきたのだ。

 

 

オージャス通信の続きはここから

 

1984

 

今回のトランプの勝利は色んな要素があったし、ヒラリーには殆ど全ての要素が揃っていたにも関わらず、たった一つの、しかし一番大事な物が欠けていた。トランプは別に優れたビジネスマンでも何でも無いし、ただ生まれ持った財産に支えられ、それによって勝ち取ったビジネスを必ずしも成功させていない。

例えるならば口の達者なセールスマンか、乗っ取り屋で、偉大とは程遠い経営者であり、勿論確たる政治理念も無い。しかしマーケティングによって客のニーズに合わせた戦略で勝利を手にする能力に優れている。
この結果には、ありきたりな表現だが、なんとか壊れることなく不完全ながらも他に選択しも見つからない資本主義の終焉の始まりを感じたし。白人労働者の最後の逆襲として、モルヒネの様な明日無き禁じ手を使ってしまったように思えた。

今回の結果は間違いだと思わない。けれども現状を変えないまま、今回のサンダースやトランプを支持した声を現実的に反映させる政権が無難で安全だったろうと思っているだけだ。
僕もサンダースを支持していたし、現状は変わるべきだと強く願っていた。

 

都市国家から国民国家へと移り、グローバル化した世界はインターネットによって益々ボーダーレスになって行った。国家とは誰の為の物で、何故存在する必要があるのか?もしも民族や固定の人種により構成されるものでなくなれば、その問いはどこに向かうのか。この様にコンピュータが目まぐるしい発展を続け、生活の在り方をどんどん変えていけば、異なる言語は障害になり、人間の存在も変化していく。その結果地球は一つになり、見方によっては平和な形へと向かうのか?それならばマルクスが唱えた資本主義の後、社会主義が生まれ、その最終形態として共産主義へと移行する。それがこのタイミングなのかもしれないと思えてくる。

この後、ヨーロッパはドミノ倒しの様に右傾化していくだろう。
世界は先の大戦を教訓にして、愛と平和の理想を掲げ進んできた。しかしその理想は、ネオレアリズモ時代のルキノ・ヴィスコンティの傑作『若者のすべて』の絶対的な善として描かれるロッコの様に、どこまでも寛大で優しい行動が、悲劇的な状況へと導いてしまう。という不条理な結末を描き出すのか。

 

最後に今回の大統領選の結果を色々考えている時に、ある国内のニュースに一つの共通点を見出した。『天光寺の高尾聖賢住職による中学生暴行事件』である。教育の現場でも、国際法に基づく子供の権利条約を中心に、子供に寄り添って、もっと子供の声に耳を傾けよう、そんな高潔な理想が歪な形として、こんな寺に通算五千人もの若者を持つ親が、一日7500円支払って修行させるという馬鹿げた状況を生んでいる。
勿論暴力を容認する訳ではないけども、親が自信を持って子供に接し、学校の先生を信頼してる環境があれば、例え屈強な体育教師の行き過ぎた愛の鉄拳が振るわれても、止めることが出来る冷静な社会科の先生や、優しい国語の先生等、様々な大人たちが存在する学校内では、暴力の暴走に歯止めを掛ける事が出来る。
しかしお寺という閉鎖的な空間で、宗教が間違った形でその根拠を支える作用を果たし、一人の人間を暴走させてしまう。今回の事件では辛うじて大事に至らなかったが、簡単にそうなってしまう環境にあった。(その宗教という衣を纏ってやる商売の在り方は道義的に許せないが、その行為の一つ一つはそんなに重大だとは思っていない)

 

エルビスがフォーク・ブルース・カントリーをロックンロールという姿に変え、ビートルズを初めとする60年代のアーティストが発展させウッドストックという形で歴史を刻み、それ以降その精神は失われながらもビジネスとしてのロックは70年代どんどん巨大化していったが、パンクロックが全てを破壊した。そしてまた新しい音楽が生まれる。
勿論政治の世界でも、人類に於いても、足元の自然に至っても、この体内の中でも破壊と再生は繰り返えされる。それは巨大地震の様に目に見える形で突然現れない。歴史家が振り返り、そのポイントを丁寧に手繰り寄せていく。社会の分断を繋ぎとめる役割としてヨガをはじめとする流れが少しでも寄与できればと願いながら。

 

とりあえず4年間を見守って行こう。

 

あの時のように暗殺される事がなければね。
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