スタンリー・キューブリック監督作SF映画の金字塔。 AIによってコンピュータは感情を持つのは確実であり。 不確実な人間を殺しだすのは、なんら不思議なことではない
例えば馬に跨って荒野を駆ける彼の横で、僕はバイクに乗って走っている。近くでそれを眺める誰かはこの二人の乗っている物の違いをはっきりと区別できるだろう。しかしそれが高度3000メートルのヘリコプターからでは、その二人の乗り物の違いは確認出来ない。人間の捉える殆どの事柄は見る側の目線によって理解し語られる。
先日こういう事件があった『Microsoft』からリリースされた会話理解を研究する人工知能『Tay』で、ユーザーが恣意的に人種差別や性差別、暴力表現などの会話を発信し、それによって学習した『Tay』はヘイトスピーチを繰り返すようになったのである。
その結果、このサービスは僅か一日で利用停止という事態に陥った。この事件はSFの世界で語られる「進化したロボットが意識を手に入れ人間を殺しだす恐怖の世界」を想起させた。
さてこの状況を人間の子供に当て嵌めてみよう。僕の5歳になる息子はどこで憶えたかはわかりませんが(おそらく保育園のお兄ちゃんやアニメ)四六時中「ち○こ」「う○こ」「おし○こ」などと叫んでは大笑いしている。しまいには少ない語彙を精一杯使って1分位のお下劣な曲を自作しては楽しそうに歌っている。
僕らは頭を抱え、叱り諭しながらも終いには笑い出す始末。
この振り回される大人たちを別の視点で捉えると、上辺だけの常識や社会の欺瞞を陽の目に晒す、中世の道化師のような役割を担っているのか!という本題から外れる考察はさて置き。
『Tay』と息子にはそんなに大差が無いように思えた。
勿論子供はその後、社会と関わり合い、沢山の人との出会いから様々な影響を受け、殆どは善意ある良識的な大人へと成長していく。だから世界は色んな最悪な出来事が起こっても崩壊せずに続いている。
だから『Tay』だって同じような道筋を辿っただろう。
因みに僕はスマホを使って色んな事を調べる。おそらく横に居る妻よりも僕の興味に詳しいだろう。今のところスマホに対して主導権を握っているのは僕だ。けれども大量に記憶された検索文字により連動して現れる広告は、誰よりも的確に好みの洋服を用意してくれる店員さながら、僕の思いを先回りして待ち構える。自分自身の考えから出発しているとはいえ、いつの間にか思考は停止し促されるままに選択を続け、気付けば主導権は奪われて、その後はスマホの意思のままに動かされ生活する僕が居る。
her/世界でひとつの彼女 この映画は間違いなく将来名作として評価されるだろう。 もはやパチーノ・デニーロの次の世代を代表する役者と言っても過言ではないホアキン・フェニックス。 しかしリヴァー・フェニックスの弟ってのが凄いよね。顔は全然似てないけど
これは何も飛躍した話ではない。今現在、僕らがコンピュータを組み込んだ生活を送っているのは間違いないし、一日の半分以上画面と向き合っていたり、今でこそ未だウェアラブル端末は腕時計やメガネに留まっているが、それでさえもほぼ一日中直接体に身につけた状態であって、もはやコンピューターは私ではない!と誰が否定できるだろうか?
コンピュータは私なのか?
それとも私じゃないのか?
それを判断する基準は、割合の問題だと思う。生活の中でどの程度の割合を占めているのか。
僕が何故こんな考えを巡らすに至ったのか?それはある日、いつものように映画を観ていて、オープニングのシーンで電子回路に信号が流れている映像が映し出された。すると忽ち車が流れるハイウェイの絵に切り替わったのだ。
その時僕は気付かされた。自分が認識している世界なんてほんの一部に過ぎないと。僕らは電子回路の光を上から眺めている。そして僕らが認識し得ない何かが、そんな僕らを上から眺めている。そして神の存在について考えてみた。もしも神という存在が僕らの頭が創り出した物では無いとしたら、、、その神は僕とスマホの区別がつくだろうか?
神の視点からでは、僕の脳もスマホも一緒くたに扱われるのではないだろうか?
そして考えは進んで冒頭の話へと戻っていく・・・
人類はまるで自分達人間が中心であるがの如く地球に対して振る舞う。
国家は我が国こそ正義だとして戦争をはじめ、その結果犠牲になった多くの人々叫びを省みる事無く繰り返す。
会社は利益の追求の為に社員の生活を犠牲にしてでも生き残ろうとそれを正当化する。
そんな全ては他者の立場に寄り添って考えることの出来ない心の愚かさなのだと。
そして再び神が現れる。神は人間が創り出した良心の賜物であり悪に立ち向かう希望である。だから神は僕らの肉体を超え遥か遠くのどこかに存在するんだと。それがどんな宗教にも捕らわれることの無い僕にとっての神なんだと...
と些か誇大妄想気味の大袈裟過ぎる内容が続きましたが、人ってのはつくづく今置かれている立場や経済状況やら様々の諸条件によって考えが固定してしまうもんだなと。
でもそれは仕方ない事かもしれません。
しかし相反する表現になりますが、自分の考えには自信を持ちながらも疑う事を忘れない。
相手の立場でものを考える。なるべくそうやってみんなと接したい。
いつも間違いを繰り返す、そんな僕だから思うこと。
ところで皆さんお気づきでしょうか?
AIの話しはどこに行ったんだと。どうやってテーマに戻って終わらせるのかと、実を言うと今僕は全く違う電車に乗ってしまった気分です。ホームはどんどん離れて行ってます。
完全に繋がっていた考えも、最高のメロディーのように消えてしまいました。
でも確かこんなイメージを持っていた筈です。
恐れることはない生き物のように意識を持ったコンピューターだって友達になれるさ!
はじまりにして最終形!宇宙一美しいアンドロイド。 映画のビジュアルや衣装は同時代である狂騒の20年代のパーティーの様子を彷彿させる
SF映画の原点にして頂点!!このイメージから逃れられるわけがないから、 きっと未来の現実のデザインもこうなるでしょう。