【2018/3月号】今どきのNEWSって・・・ 

今どきのNEWSって・・・          

 

紙からデジタルに媒体が変化するだけに収まらず、形の変化が変わってはならない質までもが失われる危機にさらされる気がする

 世の中は絶えず移り変わり、それまでの常識がもはや意味を失い価値観は更新されていく、その中で揺ぎ無い自分を持って生きていくことは、まるで隠遁者の如き孤独に身を置くようなもの。隠遁者は大きく次の三つに分類される。『抗議者、殉教者、追求者』それが宗教的な組織に属さないのであれば尚更であり、抗議者としての人生は苦しく、できれば追求者として生きれるならば幸せだな~と半端者の僕は憧れを抱きながら思いに耽る。

 さて皆さま、LINEは使ってますか?オージャスでもお二方を除いてスタッフ間の連絡はLINEでやっていますが、本当に携帯のメールアドレスが形骸化した昨今、今じゃこれがスタンダートとなって、極稀に相手がLINEを使ってなかったりすと「え~LINEやってないの!」みたいに些か煩わしさも感じ(先のお二方を責めてる訳じゃありませんよ)たりするのに、NEWSで「若者のLINE離れって本当?」って記事に「ちょっと漸く慣れてきたんだから、このまま行こう。あんまりだよ」と、変化に抵抗を感じ狼狽える僕・・・そしてまだインスタもやってません!

 そりゃ幾ら変化に対してスピーディーに対応できる年齢の若者でさえ、現代の変化の早さには食傷気味になっても仕方なかろう、とも思うのです。

 で『今どきのNEWSって』って話なんですが、LINE使ってると、アンダーバーに赤いリプライが出てくるじゃないですか、NEWSとかタイムラインやら、まあ何でも嫌なら見なきゃいいじゃない?って話なのは十分承知の上で、でも声を掛けられてるのに、そんな無視するみたいな事はできません!と(まるで親切心のような物言いで覗き見趣味もありながら)

で、その記事を開いてみると大抵が『○○○息子との2ショット公開素敵な写真と反響』やら『○○○部屋着でツインテールが可愛いと話題に』『○○○真っ赤なベレー帽でピース、ファンから絶賛の声続出』『○○○NYでファンに声を掛けられた時の神対応が話題に!』『○○○新ヘアスタイルに誰かわからなかった!の声』などなど・・・

 そんなんが毎日膨大に発信される訳ですよ。「これってNEWS?」みたいに。呆れるを通り越し呆然とする始末。もちろん

 どこかの爆弾より目の前のあなたの方が 震えるほど大事件さ僕にとっては ♪

 という気持ちもわかりますし、百歩譲って芸能ネタですからね。でも普通の報道でも、中身を読むと「それはわかったけど、それで?」みたいなガキの使いか!って言いたくなるような、到底記事とは言えない様なお粗末な物で溢れ。勿論これらは確実な反響が数字として現れてるんですよ。デジタルによって全世界の呟きや頷きまでもが表面化してしまうことにより、質なんてもんは置いといて、とにかく大量に発信してアクセス数を稼いで来い!と。そして勿論受け取る側も、わんこ蕎麦の如く(岩手の皆さま引き合いに出して申し訳ありません。悪意はないんです!)味わう暇もなく押し込まれ、消化するまえに次がやってくるみたいな。思考停止に陥っても仕方がない状況で、しかしそれこそが人間が求める悟りの境地とも言える、目指すべき状態なのか?一見すると同じように見えるこの状態を、深く意味を探っていくことが出来ずに、どうやって区別する事ができる?と少し横に逸れてしまった感は否めませんが・・・

「iPhoneは大きな森を生み出す「最初の木」」とされたが、その森の住人である僕らは森はおろか木さえも見れていない状況に生きている

 人間の能力自体が向上している訳ではないのに、周辺機器ばかりが驚異的な発展を遂げ。それは時速1000kmの自動車を運転するようなもので、とても人間の動体視力では及ばない。「だから自動車もAIによって自動運転になるのだから、1000kmでハイウェイをぶっ飛ばそうが関係ないじゃないか?」しかしこのまま行くと、人間の行動や思考までもが、自動運転の状態に陥り、どんな圧制政治を敷いた権力者でさえも奪えなかった、想像することの自由でさえも、無自覚に放棄しかねない。もはや生きているのか生かされているのか解らない、与えられるがままに身を委ねる毎日。

 自動運転を受け入れるという小さなひとつの事柄は、自動車を運転する自由を失うという事だけに留まらない問題まで発展する状況を招くだろう。

 僕はテクノロジーの進化した未来に希望を抱いていない。「自分の都合の良い形で、便利に使って生活を良くしていけばいいだけじゃん。あくまでも使い方しだいでしょ?」という予測は甘いように思えてならない。とてもこちらがコントロールできるような代物ではない。

 そして今やニュースメディアを脅かすSNSの存在は、ローカルジャーナリズムを死に至らしめる。地方紙と地元企業との関係は、その地域で生きる人間たちを繋げる重要な存在だ。ネットの空間は、その創造の理念と乖離し、むしろ中央集権の様相を呈し、そうかと思えば便所の落書き程度の眉唾物のデマが、凶暴化した群集の心理により、中世の魔女狩りのように、自己弁護の意見を述べる暇もなく粛清される。

FacebookとGoogleはデジタルマーケティング業界で絶大な力を持ち、その成長のすべてを2社で独占している。健全な競争が失われた結果、消費者は不利な状況に陥ることになるのか?

もはや中心もなければ、右も左もない。ただただ単独型テロリストのように点在し散らばっているのだ。

 SNSローカルコミニティの育成に恩恵をもたらすことは難しく、あくまでも趣味思考が同質な者同士を結びつける役割にのみ力を発揮するだろう。

「それの何がいけないのか?」

 そう言ったコミュニティーは反対意見を封じ込める性質を持ち自浄機能に欠ける。

自分が批判されない心地よい場所・・・

 まるでユートピアのように映るその空間は、実のところ寛容さに掛け、トランプ大統領をはじめとするナショナリズム旋風と見事に符合してしまう。

 閉鎖的な地方都市が持つ弊害により苦しんだ人は多いかも知れないが、ただ近くに住んでいるだけと言う環境の中で、何となく折り合いをつけながら他人と上手くやっていくというコミュニケーションの姿勢は非常に大切である。

 例えば大人になって考えると、今では何の価値観も趣味も合致しない、ただ単に子供の頃に同じグループで遊んでいたというだけの古い友人なのに、今でも何の気兼ねなく、たわいもない時間を自然な姿で共有できる。その貴重な関係は、正に歴史という概念によって支えられている。

 現在のデジタル化の先にあるものは、歴史の喪失だ。人類は歴史という見えないけど、共通に存在する安心感によって、国をはじめ、もっと小さい単位の、更にそれぞれの地域の安全が担保されてきたように思える。

 それは国家にとって神話のように尊いものであり、個人にとっては、特に深い話しをした事もないが、お互い長い時間をかけて、お互いの人生の一部を交じり合わずとも共有している隣人のように。自分の存在を気付かぬところで支えあっている。

 アナログな時間の積み重ね。

 デジタルの進化は時間の概念おも変えていくのか? 

 純粋培養された空間は、それがいかに美しく良心的で道徳的に正しいものであっても、ひとつの考えにのみ支配されいるとしたら、それは最悪の事態に他ならない。

 カトリーヌ・ドヌーヴらがハリウッドの『#MeToo』運動を批判したように、不器用なナンパと性的攻撃を混同しないだけの洞察力も持って、多様な意見が殺されることのない、あらゆる自由を愛することの意味。

 ジャーナリズムが担うべき反骨的で批判的精神の崩壊は、高度に監視された全体主義が蔓延る恐ろしい未来を予感させる。

人は醜くくもあり美しくもある だから世界は素晴らしい。 

ハーヴェイ・ワインスタイン(ハリウッドの映画プロデューサー)によるセクハラ疑惑が報じられたことを受け、ハリウッド女優たちが中心となり同様の被害を受けたことのある女性たちに向けて'me too'と声を上げるようTwitterで呼びかけたことが発端とされる
「ル・モンド」に掲載されたカトリーヌ・ドヌーブら100人の女性の声明文は、正しく解釈されることなく、むしろ女性同士の分断を招いてしまった。
その中でまずは冒頭でこのように述べている
『女性に対する性的暴力が、とりわけ、 権力を悪用する男性がいたりする職場環境における、女性への性的暴力が、正当に意識されるようになりました。こうした問題が意識されるようになったこと自体は、必要なことでした。しかし、自由に発言できるようになった女性たちの矛先が、いまや逆方向に向かいはじめました。わたしたち女性は、しかるべく話し、女性たちの気分を害することは言わないように命じられ、この厳命に従わない女性は、裏切り者であり、男たちの共犯者とみなされてしまうのです。』

そして更に重要な箇所として
『《豚ども》を屠殺場送りにしようとするこの熱病は*2、女たちを自立させるどころか、実際には、性的に自由な敵たちを、宗教的な過激主義者たちを、最悪の反動主義者たちを、さらには、善の根幹をなす概念とそれに似合うヴィクトリア時代のモラルの名のもとに、女は《別の》存在であり、大人の顔をした子供であり、保護されるべき存在であると考えるものたちを、利するだけなのです。』
この文章を正しく読めば、むしろ先輩の女性として同じ痛みを理解しながら、若い彼女たちの未来を危惧している内容であることが理解できる。
この独自の空気に支配された状況で、前後の文脈を無視して、言葉を切り取る行為は、人間の知性の死を意味する。