【2017/12月号】1975年はじめに僕は産まれ、1987年ふたたび僕は生まれた

(YOGAもPUNKも同じ四文字 同じようにライフスタイルに対する革命運動、それはお仕着せの自由じゃなくて本当の自由を求める闘争だ!YOGAがPUNKと同じなんて!って目くじらを立てるようなあなたは、全てを飲み込んで抱きしめてくれるYOGAの愛をまだ知らない)

僕は何かを自分のものにしようとする時、ついつい悪い癖で遠回りをしてしまう。勿論その目的によっては効率的で一番近道を探るときはあっても、遠回りや、回り道という行動に駆られてしまう。だからかと言う訳ではないが、経営者であるにも関わらず、ビジネス本なんて1冊も読んだことなく、自己啓発本なんて尚更だ。
英語のschoolの語源にあたる古代ギリシャ語のschol?は暇を意味する。特定の目的を定めず思う侭に学び、それによって得られた知識を実生活で実践していく。技術はある型をベースに発展させていくべきだろうが、生きていく智慧に関しては、なるべく自由でありたいと思う。
僕は子供の頃から音楽が好きで、保育園児の頃はおもちゃのマイクを手に親戚の前で、ジュリーの真似をして歌い帽子を投げていた。小学生の頃から流行の歌謡曲は勿論のこと、母親の影響で拓郎・陽水をはじめとするフォークソングをレンタルレコード屋で借りたり、はっぴいえんどのあのジャケットが妙に印象的で、何の知識もないまま聞いたりしていた。
そして小学6年生の頃、世は正にバンドブーム幕開けの時、いつもの様に夜のヒットスタジオを観ていた僕は衝撃的瞬間に出くわす。ブルーハーツが登場したのだ!
それは本当の意味で人生最大の衝撃だった。体中の血液が全て入れ替わるような感覚で、世界の全てがその瞬間から変わり、僕の中で新しい時代が始まった。それはプレスリーやビートルズやストーンズでもなくブルーハーツだった。

(一番好きなバンドとか音楽とかそういう括りじゃなく、これが全ての始まりという感じの一枚。20年以上聞いてないのに歌詞は全部憶えてる。サンキューBLUE HEARTS!俺の母ちゃんが絶対母ちゃんじゃないといけない位、俺の10代にこの1枚がない人生なんて想像できない)

翌日一番仲良しの友達と目を合わせ同じ言葉を発した。
「昨日観た?中学生になったらバンドやろうぜ!」(どこかで聞いたことある言葉が自然に)
小学生の僕には、歌詞の意味など深く理解できず。でも何だかその言葉に直感的にゾクゾク震えた。

その中に『パンク・ロック』という曲がある。その歌詞は

♪吐き気がするだろうみんな嫌いだろ

まじめに考えた まじめに考えた

僕パンク・ロックが好きだ

中途ハンパな気持ちじゃなくて

本当に心から好きなんだ

僕パンク・ロックが好きだ

友達ができた 話し合えるやつ

何から話そう 僕のすきなもの

僕パンク・ロックが好きだ

中途ハンパな気持ちじゃなくて

ああ やさしいから好きなんだ

僕パンク・ロックが好きだ♪

それから20年位経って、再び耳にし、
「え!パンク・ロックがやさしい?」
その風貌や音からは凶暴さは伝わっても、とても優しいイメージとはほど遠い気がするんだけど、どう言う意味だろう・・・

勝手にしやがれ!!セックス・ピストルズ 唯一のスタジオ・アルバム!いまだに売れ続けてるこの1枚。絶対停車する駅と同じ、これからもずっと若き衝動と共鳴するだろう)

(London Calling/The Clash 1979/僕が一番尊敬するロッカーはジョーストラマー!このジャケット見ただけでゾクゾクするでしょ。パンクは音楽ジャンルじゃなく生き方。クラッシュはどんどんその音楽スタイルを変えていった「クラッシュを信じるな。自分を信じろ」この言葉は僕の心に刻まれてる)

歴史の転換とは、その文脈の上で必然的なムーブメントとなり勃興する。だから決して突然変異で現れるものではない。これは音楽のジャンルも同じで、パンク・ロックは60年代後半にNYのアンダーグラウンドで生まれたと言うのが正しいかも知れないが、ここでは1970年代の終わりにロンドンで起こったピストルズやクラッシュの時代を定義したい。
当時のイギリスは、不況による失業者の増加と言う社会問題を背景に、若者たちの不満や怒りが爆発寸前だった。そして音楽シーンに於いても、60年のウッドストック以降のスタジアム級ロックバンドは、商業主義的に肥大し、高価な機材や高度な演奏技術を競い合うスタイルなど、若者のリアリティから乖離したものになっていく。もはや不良の象徴だったストーンズでさえ、オヤジ臭く映っただろう。
そこに自分達と変わらない年齢で、しかも演奏も下手糞な若者達がステージに現れた。そのメッセージは反抗的で暴力的で過激。そして奇抜なファッションや髪型は、行き場のない鬱積した毎日を送っていた若者を掬い上げ、大きな社会現象となり世界を巻き込んでいく。
別に当時の社会的背景なんか全く知らなくても、若者なら夢中になる何かをパンク・ロックは感じさせてくれる。それはいつの時代だろうと、普遍的な若者の感情と共鳴するのだ。
その出現に階級社会が色濃く残り、保守的なイギリスの大人達は文字通り顔をしかめ、あからさまに嫌悪するのだが、これはビートルズの時だって同じこと!
パンクのコンサート映像を観ると、男の子も女の子も薄暗い地下のクラブで、髪を立てて、病的なメイクして、もう耳が新宿の繁華街の密集率さながら、隙間なくピアスがぶら下がっていて、ぶつかりあったり、時には殴りあったりして、食生活や健康なんてものには、一切関心はなく、絶対野菜スムージーなんて飲まないね!(笑)
その映像をからは、一見優しさの欠片もないように感じるし、たむろってる場所も廃墟みたいな壊れた建物で、簡単に言ってしまえば社会から見捨てられた貧しい人間の吹き溜まり。でも本来ロックやブルースはそんな虐げられた環境から産まれてきた。

さて、パンクロックの解説に随分文字を費やしてしまったけど、改めて

♪僕パンク・ロックが好きだ
優しいから好きなんだ♪

「パンク・ロックの優しさってなんだろう?」と考えたとき、やっぱり演奏が易しいってことが、その優しさの象徴じゃないかと。それは中学生の僕らが遊びでバンドを始めて、なんとなくブルーハーツの演奏なら、同じようなことが出来た(厳密に言えば出来てないんですが・・・)これがフュージョンとかプログレだったら、きっとはなからチャレンジする気にもならなかっただろう。そう言う意味で、俺達にも出来るんだ!的な勇気をくれたんだと。それってやっぱり凄い優しさだと思う。俺もお前も一緒だぜ!とクソガキどもの肩を抱いて励ましてくれる、そんな感じ。
そして、どんなことをやっても良いんだ。お前の思うようにやれ!Fコードさえも押さえられなくてもいい。お前がこれだと思って出した音がパンクなんだ!と。
その自由さに最大の優しさだったんじゃないかと振り返る時、中学の頃に一緒になって夢中になった仲間を思い出す。

彼は小学校高学年の時に隣町から転校してきて、僕らは直ぐに仲良くなった。お互い遅くまで遊んでても怒られなかったから、いつも二人は最後まで一緒で、僕がいよいよお腹がすいて帰ろうとすると、彼はいつも寂しそうにしてた。彼は母親が居ませんでした。僕らの街は貧しかったけど、当時殆どの家庭には両親が居ました。
6年生の時の遠足で、彼は持ってきたお弁当を、開いて直ぐに閉じた事があって、僕が一瞬見たその中身はミートボールだけが入ってました。彼は舌打ちをし、直ぐにその場を離れ、僕は掛ける言葉が見つからず、とにかく早く弁当を食べ終わることしか思いつかなかった。その時のあいつの辛そうな顔を今でも憶えている。
中学1年の時、学校で一番初めに煙草を見つかったのも一緒だったし、バンドをやったり、誰かの家やゲーセンや喫茶店で毎日遅くまで一緒に過ごした。

そんな彼の埋めることに出来ない空白や、やり場のない気持ちに、やっぱりパンク・ロックは優しかった。

高校1年の時に彼が暴走族に入るって言うから、「俺は真剣に音楽やりたいから暴走族入るんならバンドは一緒にできねえ」と言った。それ以来あんなにずっと一緒だったのに、高校も辞めて、たまに夜の街で顔を合わせる程度になって、カタギじゃなくなって、今は壁の向こうで20年の拘束の中で過ごしている。
環境のせいにして正当化するわけではなく、勿論もっと過酷な環境での人の道に外れる事無く立派に生きてる人も沢山いるけれど、僕と彼の違いは、母ちゃんが居たかそうでないかだけだった・・・
そして僕が出会った中で一番パンクファッションが似合ってた2つ年上の先輩が居た。

色白でちょっと外人みたいな顔だったから、まさにシド・ヴィシャスみたいで、ほとんど毎日その彼と、先輩の家に遊びに行ってた。そのオンボロアパートの先輩の四畳半の部屋は、絵に描いたような不良の溜まり場だった。
ある日いつもように先輩と一緒にアパートの下に着いたら「あのヤローまた来てやがる」と言って停めてある車から、先輩はタバコと小銭をかっぱらって、その金で僕らはお好み焼屋に行った。
先輩は父親が居なくて、お母さんはホステスとして働いていた。お母さんは綺麗で、こんな迷惑な僕らにいつも優しかった。
あの時代、しかも田舎でシングルマザーは肩身が狭かっただろうし、3人兄弟だったから経済的にも大変だったんだと思う。
その車の持ち主は、僕も知ってた小さな会社の社長のだった。中学生の僕にとってその先輩は、いつだって誰よりもイケイケなのに、面白くて優しくて、一緒だったらどこへ行っても無敵な気分にさせてくれた、そんな大きな存在だった。

あの時のどこにもぶつけようのない複雑で悲しそうな先輩の顔は、少しづつ色んなことがわかり始めた僕にとって忘れられない、感情として強烈に記憶されてる。

その先輩の部屋では、いつもパンク・ロックがラジカセから流れていて、それにあわせて一緒に歌えば、それだけで最高な気分にしてくれた。

先輩は中学卒業と同時に就職して遠くの街に行った。僕らは30人位で早朝の駅に見送りに行った。先輩は彼女と二人で小さな鞄1個持って。まだ15歳だったけど、今の僕と変わらないくらい大人に見えた。先輩はその後、真面目に働いて、その彼女と結婚し子供も産まれ立派な家庭を築き幸せに暮らしている。

パンク・ロックは優しい。

そんな落ちこぼれの少年達だけにじゃなく、クラスの隅の目立たない子供にだって、勉強が出来るやつにだって、悩みや迷いや絶望を抱えてながらも前を向いて歩こうとしてる、全ての若き野郎ども、若いとは年齢だけじゃない、その気持ちを持ってる者たち全て。理想を否定し、条件を破壊して、自ら創造する自由を教えてくれた。

光が届かないような場所までも照らしてくれる優しい光。

パンクの星はいつだって見上げた空で輝いている。

(ラフィン・ノーズ 1985年 LAUGHIN’ NOSE ゲット・ザ・グローリーのドラムが鳴り始めて拳を突き上げずにいることなんて出来る?俺には無理だね)

(ザ・スター・クラブ 僕が一番好きだった日本のパンクロックバンドはこれ!35周年の時のコンサートの時は年甲斐もなくダイブした。音楽性も幅広くそのクオリティも高いし、歌詞も凄く知的で硬派でバラエティーに溢れ、そして誰ともかぶることのないその歌唱法や声、どれを取ってもサイコーのなに何故か評価が低い!!!非常に悔しい。明日のジョーで言えば無冠の帝王カーロス・リベラみたいに不運なバンドだと思う。世界的に有名な画家の奈良 美智さんは大ファン。制作中はスタークラブを聞きながら描いてる)